2007年12月29日土曜日

足枷

時間は流れていきました。

僕の中の時間は止まったままで。

毎晩のように悪夢を見ました。

13歳の頃の自分を上から見ている夢でした。






ある時は殴られ顔の形が変わっていく様を。

ある時は木材で殴られ丸くなっている自分を。

ある時は紐で首を絞められ失神していく様子を。








生々し過ぎる映像でした。







起きる時は決まって汗だくでした。

その痛みと恐怖を体は知り過ぎていて、夢を見る度に今も暴力が続いてるかのようでした。

起きている時も、寝ている時も休めない。

精神は疲れ果てて、何もする気が起きませんでした。






こんなのきっと誰にも理解はされない。






何処に吐き出せば良い?

どうやって自分の気持ちを出せば良い?

いつになったら解放される?







死にたいんじゃない、消えたいんだ。






この世に自分が居たという全てのものを無かった事にしたいんだ。

産まれて来た事が間違いなんだ。

もう疲れたんだ。

疲れたんだ・・・。













気が付くと、また心は氷のように冷たく固まっていました。

2007年12月24日月曜日

腕の傷

腕を切る事。

血を見て落ち着く事。

普通に考えたら狂っているとしか思えないような行動。







やめたくても、やめたくても、どんなにやめたくてもやめられない。






そうしなければ、絶対に生きてなんていけない。

腕を切りたいから切っている訳じゃない。

切らなければならないから切っているんだと思っていました。

楽しくなんて無い。

ただ現実から逃げる為だけに。







そんな事を続けて。







時間は誰にでも平等に流れていきました。

僕の中の時間は13歳で止まったままでしたが。

もう少し蒸し暑くなり始めていました。

半そでの季節でした。







腕にはいつもガーゼを貼り、傷が見えないようにしていました。






不自然な位置に不自然な形で。

僕の友達はみんな気付いていました。

でも、他人には見えない。

心の最も深い所を見られなくて済む。

そう思えばガーゼ一枚なんて安いものでした。







ある日、仲間との飲み会の後、僕は仲の良い先輩と二人、駅前でタバコを吸いながら話していました。







時間は夜の二時。

他愛も無い話をしていたと思います。

少ない人影。

ゆっくり流れる時間。

駅だけが暗い中で浮き出たように光っていました。







このまま消えたい。






そんな事を考えていると、先輩が僕に問いかけて来ました。








「腕・・・またやったの?」







ゆっくり駅を見ながら答えました。








「やっぱりバレてます?」








妙に明るく、笑顔で答えたのを覚えています。

その先輩は僕の生い立ちと今の状態を全て知る、数少ない大切な人でした。

あまり心配を掛けたく無かった。

そして続けて言いました。








「これ癖みたいなもんですから!頭おかしいんですよ、俺!」








笑い飛ばしました。

完全に強がりでした。

大丈夫じゃないけど、そんな事言えない。

負けず嫌いの性格も手伝って、弱音を人に吐く事はあまりしませんでした。








そんな事を全て見通すかのように先輩は悲しそうな顔をしました。







少しの沈黙の後で先輩は口を開きました。










「俺さ、のりの腕見た時に一発で解かったよ。

 俺じゃ頼りになんないかもしんないけどさ、何でも相談してよ。

 自分の事嫌いなのも知ってるけど、俺はのりが好きだよ。

 死んじゃったら本当に悲しいよ。

 のりが俺を大事に思ってるのと同じぐらい、俺はのりが大事だから。

 一人だなんて、絶対思っちゃ駄目だよ。

 腕切るな、なんて言わないし、それが救いになるんなら止める事は出来ないけどさ。

 いつかこの傷も笑えるようになるまで、なった後もずっと一緒だから。」











嬉しかった。







ただ単純に嬉しかった。

大切な人から、そんな事を言ってもらえる事が嬉しかった。

腕を切る事さえも受け入れてくれる人が居る事が嬉しかった。

この人の声は僕の砕けた心を少しずつ一つにしてくれるような気がしていました。

自分は嫌いだった。

だけど、こういってもらえる事で自分への殺意は和らぎました。













去年の六月の深夜、地元の駅で僕は先輩にただ感謝する事しか出来ませんでした。

2007年12月17日月曜日

慣性

気が付くと、顔は涙で濡れていました。

いくら泣こうと思っても泣けなかったのに。








自分の中で癒されないままでいる小さい子どもを見つけてあげる事。








それは自分が思ったよりも、傷を癒したようです。

しかし、そのまますんなりと癒していけるわけではありませんでした。







心は全力で抵抗を始めました。






自分の感情を出すことを極端に嫌っていた心が激しく動きました。

それは人生を掛けて手に入れた最後の鎧。

心の中の最後の防波堤。

誰も心に入れない代わりに、自分はこれ以上傷つかないようにと本能が仕組んだものでした。








涙なんて流したって何の意味も無い。








一人で泣けば良いとでも思っているのか?

そうやって傷ついた自分を演じて楽しんでいるんだろ?

下らない。

本当に下らないよ。








涙はすぐに途切れ、顔はいつものように無表情になりました。







確実に自分の中に二人の人間が居ました。

必死で自分を守ろうとする自分。

必死で自分を傷つけようとする自分。








そんな混乱した状態はとても恐ろしいものでした。







自分が誰だか解からない。

何が本心か解からない。

記憶がすぐに無くなる。








アームカットをしている時だけは、自分は一人だったと思います。







流れる血が僕を強制的に落ち着かせた。

いつもの通り痛みは無い。

血だらけの腕を見ながら、ただボーっとしていました。













癒しなんて、平穏なんて永遠に僕には来ないもののように感じていました。

2007年12月16日日曜日

心の欠片

心の声が頭の中に響き始めました。

自然と僕は目を閉じていました。







まぶたにあの頃の自分が浮かんできました。






10歳ぐらいの時の自分でした。

顔が腫れ上がり、体の見える部分はアザだらけの自分が。

そして、その子は聞き取れないような小さな声で言ったんです。








「痛いよ・・・。」







痛い・・・?

痛いの?

見た目だけ見れば確かに痛いと言っても不思議ではなかった。

でも、「痛み」というものから僕は長い間遠ざかっていました。

だから痛いという言葉が心には入ってこなかった。







その病気の名前は無痛症。






長い間、暴力の下で生きていた僕は痛みを普通に感じていたら生きてなんていけなかった。

体が、本能が僕を生かすために痛覚を鈍らせたんです。

長男や両親の暴力は僕の体と心を破壊してしまったようです。

虐待児には珍しくない症状のようです。

でも、誰だって殴られれば痛いはず。







僕の心が「普通」の事を言うなんて考えられなかったのでしょう。






それでも、やっと聞こえた心の声を大事にしようと思いました。

思い込むかのように僕は痛かったんだ、と言い聞かせました。

それは一日とか、そんな短い期間では無く今も続けています。

毎日、一回はあの頃を思い出し痛かったのだ、と言い聞かせる。

心の声を無視すれば、もう話してくれなくなるかもしれないから。

だから自分の心に正直にいようと思ったんです。







そして、あの頃の自分が一番して欲しかった事をしようと思いました。







その小さい子どもを抱きしめました。

もちろん、現実には居ないわけですから気持ちだけになりますが。

それでも、その感覚は現実とさほど変わらない程リアルだった。







子どもは抱きしめ返してきました。







目に一杯の涙を浮かべながら。

その目は腫れていてほとんどあいていなかったけれど。

そして涙がゆっくり、彼の頬を伝いました。













目をあけると僕の頬は涙で濡れていました。

2007年12月15日土曜日

バイブル

カッターを持った次の日。

僕はまた情報収集をしていました。

何とかして自分を救わなければ、いつか必ず自殺する日が来る。

それは確信にも近い思いでした。







生きてなんていたくない、だけど、死んだら仲間がきっと悲しむ。






自分の為じゃない。

全ては仲間の為に。

偽善と言われればそれまでですが、これが当時の本心でした。

自分というものに何の価値も見出せなかった僕の唯一の生きる意味でした。






そして、僕はある本と出会いました。






題名は「毒になる親」。

毒々しい紫の表紙。

細かい字で、細々と書いてある文章。

それは論文と呼ぶにふさわしい内容でした。

それはその後、僕のバイブルとなる本でした。







虐待とは何か、虐待児はどうなるのか、その後のケアは?






そういったものが書かれていました。

まるで僕だけに語りかけてくるような文章でした。

それだけ虐待児の典型だったという事なのでしょう。

読んでいる途中、何度もフラッシュバックを起こしました。

何度も読むのを諦めようとしました。







それでも一ヶ月以上も掛けて、僕は本を読み終わりました。






心が全て砕かれたような思いでした。

必死になって、普通を装ってきた自分が壊された。

そして、何故か小さな勇気のようなものが心に灯りました。

ロウソクの火のように弱弱しいものでしたが、それは確実に僕の中にありました。

その勇気が今なら解かる。







虐待を乗り越えそれを糧にして生きていく事。






それが小さな勇気となって僕に宿りました。

当時はまだ何が自分をそんな気分にさせているのかさえ解かりませんでした。

そして、それからゆっくりと僕の嘆きが心に響くようになりました。








今まで耳を閉ざしていたものが、聞こえるようになりました。







それは本当の自分の声。

虐待という事実に傷付けられた嘆き。

蹂躙された怒り。

無視をしてきた悲鳴。













人には言えない心の傷がどれだけ傷ついてきたかを僕に伝え始めました。

2007年12月14日金曜日

心の涙

震えながら万能カッターを持ちながら、もうどれぐらい経っただろう。

夜は更けたのかもしれません。

街は眠って、人は明日への準備をしていたのかもしれません。

誰かは遅い夕食の後でテレビを見ていたかもしれません。







そんな事なんて頭に浮かばなかった。






今、頭の中にある事は自殺する為の覚悟でした。

右手に握ったカッターを首に刺せば全てが終わる。

手に汗が滲み、体は小刻みに震えていました。






多分、フラッシュバックが止め処なく頭を過ぎっていたのでしょう。






母から、父から、兄から殴られる恐怖に怯えていたのでしょう。

5年以上も前の痛々しい過去は未だに僕の中で過去にすらなりきれず、僕を支配していたのでしょう。

右手のカッターには希望にも似たものを感じていたと思います。







そして、僕は息をゆっくりと吸い目を閉じました。






カッターを首に刺す為の最後の瞑想のようなつもりでした。

この息を吐き終わる頃には、僕はただの肉の塊になる。

この閉じた目は二度と開く事は無い。

思い残す事が無いと言えばウソになる。

でも、それよりも辛かったから・・・。







次の瞬間。






僕の携帯が鳴りました。

時刻は既に夜の一時。

先輩からでした。

とにかく驚いたのを覚えています。

とりあえず電話に出よう、と思い電話を取りました。








「もしもーし!今度よぉ一緒に酒呑もうぜ!じゃあな!!」







その先輩は滅多に電話なんてしてこない人でした。

呆気にとられて、ただ「はい。」としか言えなかった。

そしてカッターの事を一瞬忘れてしまいました。







一緒に酒呑む約束しちゃった・・・。死んじゃ駄目じゃん。






他愛も無い約束でした。

破ろうと思えば破れたはずでした。

でも、自殺する気持ちなんて起きなかった。







僕にとって先輩や同期や後輩といった仲間は何よりも大切なものでした。






そんな人との約束は破れない。

妙な義務感でしたが、そんな事を思いました。













僕は 自殺を止めたんじゃない、止めさせられたんだ。

2007年12月13日木曜日

自殺未遂?

この頃には、自傷行為も酷いものになりました。

リスカは目立つからという理由で僕はアームカットをし始めました。

血の量は少ないけれど目立たない。

だから、ズタズタに切り刻んでしまう。

良い事では無いけれど、少しでも発散しないと壊れてしまいそうだった。







PTSDは毒を増し、僕の心を支配しました。






正しくは、傷の深さを自覚し始めただけだと思いますが。

辛い事が続くと何が辛いのかさえも解からなくなりました。

僕が受けた暴力のピークはもう5年も前の話になっていました。

生まれてから13歳までが肉体的、精神的虐待の時代でした。

高校卒業までは精神的虐待の時代でした。







13歳を頂点とする虐待の傷。






思ったよりも深かったようです。

暴力や暴言から逃れてさえも、苦しみ続けなければならないほどに。







考えてみれば僕が精神障害者になるのは当たり前だった。






ずっと殴られ、蹴られ、倒され、ぶつけられてきた。

ずっと耐え難い言葉に耐え続けてきた。

ずっと耐え難いものを見せ付けられてきた。








壊れない方がおかしいんです。







だから僕は壊れた。







絶対に消えないぐらい深い傷を作ってやった。








生きている事が罪だと感じていました。

こんな最低な野郎が生きていていい筈が無い。






何より死にたいんだ!!





殺してくれ誰か!!

人殺したい奴、殺して良いよ。

もう嫌だ!たくさんだよ!!














こんな思いが頭を駆け巡り僕は右手に万能カッターを震えながら持っていました。

2007年12月12日水曜日

届かない思い

僕の心は芯から虐待児の血に染まっていました。

表面的には親と兄を憎んでいました。

それは殺意と呼んでも構わないほどに。

そして、その気持ちはウソでは無かったと思います。








それでも・・・どこかで諦められない気持ちがあったのだと思います。







あの時は楽しかったはず、とか。

あの時は嬉しかったはず、とか。

あの時は笑っていたはず、とか。

下らない思い出が僕が幸せだったんだと、思い込ませていました。

18年も生きていれば、一日ぐらい親から愛情を貰った日があったかもしれない。

その思い出にすがり、親から愛されていたと思いたかったんだと思います。







殺意を感じる相手から、愛情を受けたい。







激しい矛盾でした。

どちらが本音かと言えばどちらも本音でした。

そして、事実を冷静に見れば僕は間違いなく虐待児だった。

どうして虐待されるかと言えば愛されていなかったから。








感情を取り除いて事実だけを見れば、答えは悲しいほど簡単に出ました。






心の底に堅く封をして、閉じ込めていた小さな希望さえ捨てることになりました。

親からは愛されていなかったのだと認める事。

愛情ではなく虐待を受けて育ったという事。

この事実は僕に惨たらしい程の傷を負わせました。






これを思った時、悲しかったんだ。






本当ならば親は子どもを愛すべきで。

ごく普通の家庭ではそれは当たり前で。

そんな当たり前の事さえして貰えなかった事が悲しかった。

暴力と暴言に破壊された心は二度とは元には戻らないでしょう。

父親が、母親が、兄がしてきた虐待という傷はそれだけ深いのでしょう。






冷静に見てると、また解離してました。





PTSDと戦う決意をしたのに、あの時の僕は今にも折れそうでした。







死にたかった。






自殺願望が激しくなり始めました。

今すぐに死ななきゃ・・・。

それでも大切な友達を悲しませたくない。

それで何度も何度も自殺を諦めました。













虐待児としてのスタートは絶望に満ちたものでした。

2007年12月10日月曜日

本心

HPに救われた、あの日。

僕の意識の全ては変わりました。

自分の内側に目を向けよう、と思い始めました。

気付かない振りをして、無視し続けてきた闇に目を向けようと。

枯れてしまった感情を取り戻そうと。







そして、それは虐待とPTSDとの長い戦いの始まりでもありました。






全ての虐待児が自分の精神を省みて、進み始める事はゼロからのスタートではありません。

それは絶対零度からのスタートなんです。

現実はそんなに僕に対して優しくは無いものでした。









張り詰めた糸が切れるが如く。

凍りついた海に放り出されるが如く。

暗闇で唯一の光を消されるが如く。










虐待児として一番最初にするべき傷の癒しとは。








「自分は虐待を受けたと認める事。」








親からは愛されていなかったと認める事でした。

それは耐え難い苦痛でした。

たとえどんな親であろうと、僕は彼らの子どもです。

アル中でも、暴力を振るったとしても、侮辱しようと、彼らは僕の親だった。









どんな親でも僕は親を心の底では愛し、愛されたいと願っていました。







僕の心は僕が真摯に向き合えば、しっかりと答えをくれました。








愛情を注がれて育った。







これが僕の心の答えでした。

そして、それを否定する事から僕の再スタートは始まったんです。

それが傷を癒す第一歩なのだから・・・。







悲しい始まりでした。

孤独な始まりでした。

辛い始まりでした。













それでも、そうしなければ僕の心は本当に死んでしまうから。

2007年12月3日月曜日

原罪

確かにHPに書いてあった文章は僕の心を揺らしました。

何にも反応をしなかった心が顔も知らない誰かに揺らされた。

それは確かな事でした。

でなければ、あんなに涙が零れる事は無かった。








しかし、僕の心に染み付いた虐待児の傷はそう簡単に僕を解放してはくれなかった。






涙を流しながら、悲しみに暮れる自分に激しい怒りを感じました。

そして、僕の中のもう一人の自分がささやくように語りかけて来ました。








「どうせ甘えたいだけなんだ。そうやって弱い自分を演じて楽しんでるんだろう?」








涙が止まらない自分に、危機に近いものを感じたのかもしれません。








感情は押し殺すものであって、表には決して出すものではない。






こんな考えが無意識のレベルで染み付いていました。

どんなに悲しくても。

どんなに苦しくても。

どんなに辛くても。

それは表に出してはならない。








誰にも理解なんてされないのだから。






感情なんて無駄なもの。

何も感じなければ傷つく事は無い、強くある事が出来る。

感情を殺す事で強くある事が出来た。

いや、それも勘違いだったのでしょう。

ただ強がっていただけ。







弱い自分なんて価値は無い。






全ての弱さは冷静に分析をし、改善を図る。

弱さはその為だけに存在し、それ以上でも以下でも無い。

自分を高めるだけのもので、自分の気持ちがどうなろうと知った事ではありませんでした。

その時に大切だったのは自分の気持ちでは無く、世間的に見た自分の強さだけでした。

見栄だけを張り表向きには強い人になったつもりでした。








その奥でいくら傷ついていても気付かない振りをし続けました。






それは長い間続けると、もはや振りでは無く本当に何も無かったかのような錯覚さえもたらしました。

だから、自分は強いのだと思い込んでいた。

何にも動じない心を遂に手を入れたのだと。








でも、目の前にある顔も知らない人が書いた文章に、僕の全ての強がりは砕かれてしまった。







見透かされてしまった。

自分の強がりが。

自分の傷が。

そして、文章は決して抽象的では無かった。

虐待児が感じる主な負の感情の反応を書いてあるだけだった。











「不当な扱いには怒りの感情を感じるべきで、それは自然な反応である。」

「失われたものへは悲しみを感じても構わないし、それが人として当たり前の反応だ。」

「悲しんでも良い、怒っても良い、それが不当な扱いを受けた当たり前の反応だ。」

「当たり前に人が持っているものを、持ち得なかった事を悲しんでも良い。それは弱さでは無い。」










ただ・・・涙は溢れるばかりでした。

自分の人生を掛けて手に入れた「強がり」がガラガラと崩れていきました。

圧倒的な暴力が、圧倒的な屈辱が、圧倒的な悲しみが、圧倒的な苦しみが僕を狂わせた。

そして、その事を弱さだと感じる必要は全く無い。







なぜなら虐待という事実は人を壊すには十分過ぎる威力を持ったものだから。













「生まれてきてごめんなさい」なんてもう言わなくて良いんだ。

2007年12月2日日曜日

文字と言葉

春のある日。

僕はPTSDについて、虐待について知識を収集していた時の事。

主にネットと本で知識を集めました。







少しでも自分の状態を詳しく知りたかった。






医者にそれを聞けるほど、僕は医者に心を開いていませんでした。

今も、病院は五分も面接しないで終わりにしています。

病院は薬を貰う所で話を聞いてもらう場所じゃない。

いつの間にかそんな思いが僕の中での当たり前になっていました。

きっと誰にも解かってもらえないから、話すだけ無駄だと。






人に期待なんてしてなかった。






人に無関心でいれば傷つかずに済む。

自分の傷は自分だけの問題。

だから周りに迷惑をかけたくなかった、いや、自分の一番深い所に踏み込まれたくなかった。






そしてあるサイトを見つけました。





星の数ほどあるHPの中、僕はそのページに辿り着きました。






文字を見て初めて号泣した。





そこには・・・。

虐待児がPTSDに至る過程や、その後のケアについて詳しく書かれていた。

そして、虐待児は自分の事を許してあげて欲しいとかかれていた。

腕を切る事も、理解されない苦痛も、悲しすぎる過去を背負ってきた自分をこれ以上責めないで、と。





「泣いても良いんだよ。

苦しかったら苦しいって言っても良いんだよ。

悲しかったら悲しいって言っても良いんだよ。

辛かったら辛いって言っても良いんだよ。」









涙が止まらなかった。








一番言って欲しかった言葉。

一番聞きたかった言葉。

名前も知らない誰かが書いた文章。

その文章に僕の心は救われた。

心の悲鳴が初めて聞こえた気がした。






こんなにも辛かったのか、と。




こんなにも傷を見ない振りを続け、心を殺してきたのかと。

涙は止まらず、夜の自室に僕の嗚咽が静かに響いていました。













心が静かに、ゆっくり、しかし確実に揺れた春の日の深夜の事でした。

2007年11月29日木曜日

桜とPTSD

ちょうどあの頃は桜が満開の時期でした。

溢れるピンク色の景色。

大学に植えてある桜が道に沿って、ずっと先まで咲いていました。

綺麗だった。

それは悲しいぐらい綺麗でした。

PTSDを背負った僕には、桜なんて全く興味はありませんでした。

綺麗に咲いた桜も、合格して浮かれる学生も、新しいキャンパスライフも、何もかもに興味が無かったです。







ただ、僕は自殺だけしないように・・・それだけに全力だったのでしょう。






いつまでも続くフラッシュバック。

いつまでも続く恐怖。

いつまでも続く苦しみ。

長い、本当に長いトンネルの中にいるような気分でした。







そして、それから逃れたい一心で腕を切り刻みました。





血を見ないと、生きているかどうかさえも自分で解からなかった。

リストカットの後には、激しい自責の念が襲ってきました。







また・・・やってしまった・・・。






ただ、自分の弱さに怒りと憎しみが湧くだけでした。

脆すぎる心。






許せなかった。





こんなにも弱い自分が許せなかった。

こんなにも醜い自分が許せなかった。

こんなにも汚い自分が許せなかった。






何より生きている事が許せなかった。





愚かで弱く最低な自分が・・・許せなかった。

自分を責め続けました。

それは容赦も無く。

本当ならば一番大切にしなければならない自分自身を、一番傷つけていました。













桜と一緒に散ってしまいたかった、大学一年の春でした。

2007年11月27日火曜日

傷だらけの少年

そして、僕とPTSDとの闘いが始まりました。

自分だけが狂っている。

誰にも理解されない。

リスカも止められない。

こんな弱音を心の中で吐く自分が大嫌いだった。

自分の中にある微塵の弱さも許せなかった。

自殺願望は積もるばかりでした。






そして繰り返されるフラッシュバック。





一気にあの日、あの時に戻される。






兄はまたあの角度から殴ってくる。

僕はうずくまり、ただただうめきながら耐えている。

暴力の限りを尽くすと、兄は去る。

そして僕は天井を見ながら、立ち上がる力も無く、ただ仰向けに倒れている。






フラッシュバックが収まると、狂った自分をただ悔やむだけだった。

そして激しい自殺願望がやってくる。

こんな醜い自分が生きて良いはずがない。

周りに迷惑を掛けてまで、生きていて良いはずがない。

何の価値も無い自分と一緒に居るだけで、大切な友達が汚れる。






とある先輩がこう言ってくれました。





「お前が友達を大切にするように、俺もお前を大切にしたい。死んじゃったら俺は本当に悲しいよ。」






その言葉で生きていようと、少しだけ思えるようになりました。

僕はまさに生と死の狭間にいたのでしょう。

死にたい、でも・・・大切な仲間が居る。






ただ辛かった。





辛さしか感じない心は僕の心臓にゆっくりとナイフを刺していくようでした。

そして、今まさにトドメを刺そうとしている。

そんな状態でした。













涙を流すのはまだまだ、先の話。

2007年11月24日土曜日

枯れた涙

PTSDと向き合う事を決意したのは大学一年の春でした。

そして、最初にやろうとした事。

それは・・・感情を取り戻す事。

生まれてから18年掛けて付いた傷は、僕から人間らしい感情を奪っていました。






何も感じない。





まるで自分がロボットのように。

何に対しても反応を示さないんです。

ただ、辛さだけは感じる。

何も感じない辛さ。

それは底無しの絶望感となり、僕を包んでいました。







何が辛いのかさえも解からない。





そんな状態でした。

何をすれば良いのか解かりませんでした。

ただ、自殺だけはしないようにするだけ。

あの時の僕にとって自殺はとても魅力的なものでした。






全ての辛さから解放される最後の手段だったんです。





でも、僕は生きる事を選んだ。

たとえ、それが辛く険しい道であっても。

なぜなら、大切な友人を悲しませたくなかった。

だから、耐える道を選んだ。






本当は・・・助けて欲しかった。





誰かに理解して欲しかった。

18年掛け、虐待され続けた僕の心を理解するなんて無理だと解かっていても。

それでも理解してほしかった、否定しないで欲しかった。

なによりも・・・。






親から愛されたかった。





心の何処かでまだ期待していたのかもしれません。

もしかしたら親や兄は僕を愛してくれていたのかもしれない。

僕が忘れているだけで大切に思っていてくれたのかもしれない。






しかし、現実はその淡い期待をクズのように捨てさせました。





現実は・・・今まで家であった事は・・・決して僕を愛しての行為じゃなかった。

ただ殴るだけのモノに過ぎなかった。

ただ罵るだけのモノに過ぎなかった。

ただ怒りを発散させるモノでしかなかった。






現実はあまりに冷酷に、僕に突きつけられました。





それでも涙は出なかった。

悲しかったんだろうなぁ~、とまるで人事のように思っていました。

まだ解離性障害だという事が解からなかったのでしょう。

僕はPTSDだけでなく、様々な精神障害を抱えてしまった。













PTSDと向き合う決意をしたのに、僕の前には絶望が広がっていました。

2007年11月23日金曜日

PTSD

PTSD。

心的外傷後ストレス障害というのが日本名だそうです。

主に虐待児、性被害者などに表れる精神障害なのだそうです。







僕はPTSDなんだ・・・。






それを告げられた時は大きな衝撃と、少しの安堵感がありました。

自分が狂っていた訳じゃない、ちゃんとした病気だったのだと思えたからです。

それから狂ったようにPTSDについて調べ上げました。

PTSDチェックリストもやりました。

ほとんど全てに当てはまりました。

チェックリストで全てがわかる訳ではありませんが。

とにかく、PTSDという事は間違いない。







そして一番気をつけなければならない事は自殺しない事。





薬と自分の努力と時間さえ掛ければ症状は改善していくのだから。

絶望の底で遠くに希望が見えた気がしました。

リストカットも、自殺願望も、自己虐待も当たり前だったんだ。






それほど傷は深かったんだ。






見ない振りをしていたけれど、傷は癒されない限り痛み続けるんだ。

僕は激しい自殺願望と戦う決意をしました。

いつか、生きていて良かったと思えるその日まで生きるのだ、と。

今まで無視をしてきた傷ついた小さい頃の自分を癒そうと思いました。













そしてPTSDとの戦いが始まりました。

2007年11月21日水曜日

砕け散った心

ある日の事でした。

酷い頭痛に襲われました。

慢性的な頭痛はありましたが、それとは比にならないほどの頭痛でした。

僕は道に倒れ、救急車で運ばれました。

様々な検査を受け、結果が出ました。






原因不明。





それが検査の結果でした。

その後、いくつかの問診を経て僕は精神科送りになりました。

リスカ、自殺願望、過去の虐待。

その事で精神科へ行く事が決まったそうです。







「僕の心は壊れているのか?」





その時、初めて思ったんです。

今まで限界でした。

自分の精神状態なんて考える余裕はありませんでした。






後日、僕は精神科へ行きました。







「今日はどうされましたか?」






先生の優しい問いかけに今まで溜めていたものが噴き出ました。








「今まで…殴られたりしながら育って、兄貴を殺しかけた事もあったし、自殺しようとして二回も失敗して、もう死にたいんです。」







涙が溢れました。

負の感情が体を包み、今すぐにでも死んでしまいたい気持ちでした。






リスカを始めて何年経っただろう?

自殺を考えて何年経っただろう?

家族を憎んで何年経っただろう?

何も感じなくなって何年経っただろう?

友達に作り笑いを始めて何年経っただろう?






そう、僕の心はとうの昔に壊れていたんです。





そう思うと涙が止まらなかった。

自分に同情した訳じゃない。

慰めて欲しい訳でもない。






ただ哀れだった。




ただ・・・自分が哀れだったんです。

それだけなんです。







「PTSDゆっくり、治して行きましょうね。」






僕がPTSDだと知ったのはこの時が始めてでした。













気が付くと、僕はもう大学生になっていました。

2007年11月4日日曜日

死の淵から見える景色

その後、家に帰らず友達に会いに行きました。

会った瞬間、涙がこぼれました。







「会いたかった、本当に会いたかったんだよぉ・・・。」







滲み出るような声は小さく震えていました。

死にたい思いと、友達と離れたくない思いが激しい葛藤をしていたんです。

心の底から死にたい、心の底から友達と離れたくない。

そして、葛藤が続くとまたいつもの感覚に襲われるのです。







自分が自分で無い感覚。






自分の手が自分の手に見えない。

誰か、他人の体を借りて自分が動いているような感覚。

あらゆるプラスの感情を感じる事が無い心。

苦しみや悲しみや辛さも和らぎます。

しかし、マイナスの感情だけは消える事はありませんでした。







自殺願望は強くなるばかりでした。







腕を切る回数も増えました。

親と兄を憎む気持ちも激しくなりました。

こんな汚い自分が生きている事が許せなくなりました。







壊れた心に誰も、僕自身でさえも気付かずに時間は流れました。













そんな壊れた心を持って限界まで生きていたある日の事でした。

2007年9月24日月曜日

最後の自殺未遂

僕は・・・心に決めていたことがありました。

親、長男と話が終わったら死ぬ事。

もう何も思い残す事は無いし、生きていたくない。

生きていて感じるのは負の感情だけ。






辛い、悲しい、苦しい。





涙も出ない程、負の感情に麻痺した心。

その心で生きていくには、僕の心は弱過ぎました。

未来なんて想像出来なかったし、したくもなかった。

だから、死のうと決めていたんです。







深夜二時、僕は団地の屋上に一人で行きました。





一番思い出の詰まった場所に。

一番辛い思いをしながら、生き抜いた場所に。

屋上の端っこに立って、深呼吸しました。

息は白く、空へ上がっていきました。







「ここから落ちれば・・・全部終わる。」






ポツリ、そう言って飛び降りるつもりでした。

死ぬ事には恐怖よりも期待をしていました。

だから、足を出すのは怖くなかった。

最後の一歩を踏み出そうとした瞬間でした。







友達の顔が一つ一つ浮かんで来ました。





みんな、家庭で辛い思いをした友達の顔でした。

その友達の笑顔ばかりが浮かんできたんです。

僕は屋上の端っこにチョコンと座りました。

足はブラブラ宙に浮いたまま。

浮かんでくる友達の顔を死ぬ前に見ていたかった。

しばらく座っていました。

死ぬ前だから思い残さないように・・・。

死ぬ前にみんなの顔を見ておこうと思って・・・。






でも、友達の顔が消える事はありませんでした。





涙がポロポロ零れていきました。

冬だったせいか、涙はすぐ氷のように冷たくなっていきました。

でも、出てくる涙は暖かくて、それが止まる事は無くて。







「死にたいのに・・・。」







泣きながら、ただ一言だけ、そう呟きました。

死にたいのに。

もう嫌なんだ。

腕を刻まなければ生きて行けない弱い自分が。

過去に縛られて身動きが取れない自分が。

作り笑いをし続ける愚かな自分が。

普通の人が普通にしている事が出来ない自分が。

体だけ生きている苦痛を味わう事が。

感情が死んでしまった心で生きていく事が。

こんなに死にたいのに、友達がそうさせてくれない。








友達に会いたい。






みんなに会いたい。

明日生きていても同じ辛さを味わうだけなのに。

そんな簡単な事は解かっているのに。






みんなに会いたい、ただ、会いたい。





何も話さなくて良いから。

何もしてもらわなくて良いから。

隣りにいてくれるだけで良いから。






そう思うと屋上から地面へ涙の粒がポロポロ落ちていくんです。







どれぐらい時間が経ったのか、解かりません。

気が付くと朝日が出始めていました。

団地は少しずつ朝を向かえ、人も少しずつ動き始めました。

自然と屋上から離れたくなって。

僕の最後の自殺未遂が終わりました。













まだ自分の心が壊れている事に気づくほど、冷静ではありませんでした。

2007年8月27日月曜日

消える前の灯火

その日の夜でした。

僕は両親に虐待の事を話しました。




なぜ虐待したのか、知りたかった。

なぜ長男からの暴力を見てみぬ振りをしたのか知りたかった。



ただ、それだけだったんです。

そして夕飯で家族全員が揃った時でした。




「なんで虐待しながら育てたんだよ?あんな扱いするぐらいなら産まなきゃ良かっただろ?」



それから話は始まりました。

そして母親は思いがけない言葉を口にしました。





「虐待?何の話?そんな事してないし、あんたの勘違いだよ。」




体の芯から怒りが吹き出ました。

子どもを殴り、アイロンで肌を焼き、気に食わないと食事すら作らなかった母親が虐待をしていないだと?

中学生がお小遣いを貰うために土下座する必要がある家庭が正常だとでも思っているのか?





怒りは僕を完膚なきまでに叩きのめしました。



何を言っても無駄だと、悟りました。

この人の中では虐待なんかじゃなく、普通に育てたつもりなのだと。




そして話は長男の暴力にも及びました。





「なんで俺を殴り続ける必要があったの?殺すつもりだったの?」



長男はただ黙っていました。

でも、顔ですぐに何を思っているのかはわかりました。




申し訳無いと、悲痛に顔を歪める長男。



彼には解かっていたのかもしれません。

どんな謝罪の言葉も何の意味を持たないことを。

どんな行動でも償えるような傷ではないことを。

だから黙っていることしか出来なかったのでしょう。













沈黙の夕食が終わり、僕はある決心を行動に移す事にしました。

2007年8月9日木曜日

家族の欠片

「な、何の話?いきなり。」



母親は驚いた表情で僕を見詰めました。

そして、僕は昨日の事を詳しく説明しました。

すると、母親は





「ごめんごめん、酔ってたんだよ~♪」




殺意を覚えました。

三人の息子にどれほどの苦痛を与えたのか解かっているのか?

お前のその軽率な行動がどれほど俺たちを苦しめたのか解かっているのか?




許せなかった。



本当に殺してやろうかと思いました。

硬く握られた拳は震えていました。

何も言わず、母親を睨んでいました。




そして決意したのです。



虐待の事を話そうと。

今までしてきた事は虐待だったのだと認めさせようと。

お前は親になんてなってはいけない人だったんだよ、と。

怒りの全てをぶつけようと。

長男に対しても同じ事を思いました。













あれはその日の夜の事でした。

2007年7月26日木曜日

心は氷となって

サラリーマンと揉め事を起こした日、僕は普通に家に帰り部屋で呆然としていました。

何かが壊れてしまったと思いました。

普段、喧嘩をするような自分では無い事はよく分かっていました。

それでも押さえきれない怒りが、自分の中にあることに気づきました。





その怒りは兄と両親に感じていたものだったのでしょう。




不当な暴力。

不当な暴言。

不当な家庭環境。





それらに無意識の間に激しい怒りを感じていたのだと思います。

その時には兄からの暴力と暴言は全くありませんでした。

理由はとても簡単で、僕の方が強くなっていたから報復を恐れて何もしてこなかった、してこれなかったのでしょう。

両親からの暴力も同じ理由から無くなりました。






しかし両親の不仲は未だに続いていました。




酒を呑み、荒れる姿は高校生の僕から見たら本当に滑稽なものでした。

こんな人間になりたくないと、心の底から軽蔑していました。

両親への怒りは激しく燃え上がりました。






そんなある日の事でした。




いつものように酒に酔い、両親はリビングで口論をしていました。

もちろん、僕ら子供は自分の部屋で知らん顔していました。

すると、リビングから大声で母親が僕らを呼びました。





「大事な話があるから来て!!!!」




酒に酔って何が大事な話だよ、と思いました。

そして兄弟三人がリビングへ集まると母親は言いました。





「明日、離婚届だしてコイツと別れるからどっちに付いてくか選びな!!」




僕はとても冷静でした。

どうせ明日には覚えてないんだろう?

酒に酔って、絡んで、騒いで、あげくには子供にまで負担を掛けようとする。





その時からコイツは母親じゃなくてただのアル中で最低な女だと思いました。





「あっそ。」




素っ気無い返事をして、僕は部屋に戻りました。

そして、翌日にコイツにその言葉の重みを痛感させてやる、と思っていました。





そして朝になりました。




いつものように何も覚えていない母親に向かって僕は言いました。






「離婚するんだろ?さっさとしてくれよ。こんな家に居たくねぇんだよ!俺はどっちにも付いてかねぇから施設にでも放り込んでくれ。」













母親はただ呆然と立ち尽くしていました。

2007年7月16日月曜日

溢れ出した怒り

それは高校一年の時でした。

ある程度友達も出来て、少し落ち着いてきた時。

やる気も無く毎日学校へ通う日々でした。





8時30分からいつものように授業を受け、昼休みになり、3時30分に授業が終わり・・・。




機械のようにただやる事をこなすだけでした。

それでも騒ぐ事は忘れませんでした。

騒いで居なければ、心が潰されてしまう。

少しでも落ち着いてしまうと、心は耐えられない。

授業が終わり、帰り道が同じ方向の友達と電車に乗り、電車に揺られながら喋っていました。

友達は途中で降りて、帰って僕は車内で一人になりました。

すると





「良いよなぁ、学生は何の悩みも無くてよ~!社会人は辛いぜ~!」




少し離れた所に座っていたサラリーマンが二人で話しているのが聞こえました。

僕の中で何かが壊れていく感覚を味わいました。





悩みが何も無いだと?




俺がどんな思いで毎日家に帰っていると思う?

俺がどんな思いで学校へ通っていると思う?

俺がどんな思いで腕を切っていると思う?

俺がどんな思いで笑っていると思う?





一気にフラッシュバックが僕を襲いました。




あの殴られながら生きていた頃に引き戻されました。





またあの目線、感覚、角度から兄の拳が飛んできました。

またあの目線、感覚、角度から親の罵声が聞こえてきました。





立っていたはずの僕はいつの間にか電車内で座り込んでしまいました。

そして目には激しい怒りが宿っていました。

そのサラリーマンが降りるのを待ち、同じ駅で降りてホームでむなぐらを掴み、壁に押し付け僕は怒鳴りました。






「悩みがねぇだと?!てめぇに何が解かんだよ!!何が解かんだよ!!!」





今まで溜めてきたものが爆発した瞬間でした。

サラリーマンはただオロオロするばかりでした。

殺意に満ちた目で睨んでいました。

硬く握られた拳は震え、息は荒くなっていました。





すぐに駅員が来て、駅員室に連れて行かれました。




キレた理由は勉強で悩んでいた事にしました。

学校へは連絡はせずに、穏便に済ませてくれました。

僕の怒りは収まっていませんでしたが、感情を隠す事は本当に上手くなっていました。













パンドラの箱はゆっくり、確実に開いていきました。

2007年7月10日火曜日

封印は固く

担任に現状を伝えてはみたものの、僕は何も感じませんでした。

悲惨な記憶が無かったせいもあるのだと思います。

僕は典型的なPTSDの症状に見舞われていました。






自分が自分で無い感覚。




担任に話した時でさえも、非常に冷静でした。

まるで他人事のように話をしたと思います。

辛い経験は僕から感情を奪って行きました。





あらゆるプラスの感情を奪い、負の感情さえも薄れていました。




何にも反応をしない、人形のような自分。

ただ、自殺願望だけを強く感じ、地元の友達以外は大切にしませんでした。

それ以外は僕にとっては何の価値も無いものだったのです。





学校、親、兄弟、高校の友達、周りの大人達。




それらは僕に深い怒りをもたらしました。

何も知らず、ヘラヘラ笑っている僕を本物だと信じ、疑わない姿は殺意すら覚えるものでした。

もちろん、間違いだらけの考えだったと思います。




しかし、それを抑える事は必死でしました。



それは何かが違う、と思っていたのかもしれません。













そんな僕の意思はある出来事をキッカケに、脆く崩れ去りました。

2007年7月7日土曜日

放課後の美術室

それはある日の放課後の事でした。

僕は担任の女性に呼び出されました。





「のり、ちょっと良いかな?」




いきなりの事に少し戸惑いましたが、僕は先生の所へ行きました。

担任は美術の先生でしたので、美術準備室という先生のプライベート空間に呼ばれました。

いつものように死んだような目で僕は椅子に座りました。

先生はココアを僕に差し出して





「飲みな。落ち着くから。」




と言いました。

何のことを言っているのか全く解かりませんでした。

黙って座っている僕に向かって先生は言いました。





「お前は何を抱えてるんだ?お前の目は悲しい色をしているよ。

私は美術の先生だから目を色で見るているの。

貴方の目の色は本当に悲しい色をしている。

失恋とかそんなレベルじゃない、何かを背負っている目の色だよ。

高校に来る前に何があったの?」





僕は…数秒黙ってから口を開きました。





「俺…リストカットしてるんです。

死にたいんです。

もう限界なんです…。」




先生は言いました。




「死んだら駄目だよ…。

今まで一人で辛かったね。

でも、もう一人じゃない、一人になんてさせない。

あたしが付いてる。

だからさ、ゆっくりで良いから生きていこう。」













僕が恩師と出遭った瞬間でした。

2007年7月5日木曜日

言葉の力

過去の家庭の記憶が殆ど無くなった状態で僕は高校へ通いだしました。

残ったものは重くのしかかる自殺願望と、体中に残った家庭内暴力の傷跡とリストカットの傷跡でした。

家庭に恵まれていない事だけはハッキリと覚えていましたが。

高校で新しい友達を作る気持ちにはなりませんでした。






恵まれた家庭に産まれた奴らに何が解かるんだ。





そんな事を思っていました。

地元の友達はみんな複雑な家庭に産まれた子ども達でした。

だからこの傷の痛みを理解してくれた。

だけど、高校の奴らなんて殆ど恵まれてるんじゃないか?






普通の親、普通の兄弟、普通の家庭。





それは憎しみにも似た、憧れだったのでしょう。

自分に無いものを持っている人への憧れだったのだと思います。

けれど当時はこれほど冷静では無く、同世代の人間に対する激しい憎しみを抱いていました。






そしてリストカットの傷跡だけは見られないように警戒しながら生活していました。





疲れていました。

多分、疲れきっていたのだと思います。

自殺願望は日を増すごとに強くなりました。

そんな時、卒業の時に保健室の先生に言われた言葉が頭を過ぎりました。







「のり…これから先何があっても死んだら絶対ダメだよ!」






あぁ、死んだらいけない、そう思いました。

死んだような目で高校生活をしていました。





友達なんていらない。




何もいらない。

体も、お金も、命も。

全身で生きる事を拒否していました。

そんな事を思いながら高校生活は一ヶ月を過ぎようとしていました。













そんな時、僕は担任に呼び出されました。

2007年7月1日日曜日

失われた記憶

卒業目前の三月。

僕は放心状態でした。

大好きな友達との別れ。

大好きな地元との別れ。

僕には受け入れられるはずがありませんでした。





卒業式前日。





僕は特に仲の良い友達五人と帰りました。





あぁ、これでみんなで帰るのは最後なんだなぁ、と他人事のように思っていました。

信じられなかった。

夜は一人で泣き明かしました。





そして卒業式の日。




僕は式の間中、泣きっぱなしだった。

辛い経験を分かち合った友達との別れ…。

それは耐え難い苦痛を僕にもたらしました。





その日の夜。



僕の記憶が飛んだのです。

過去に家庭であった事全てが消えたんです。

なぜなのかは解かりません。

多分、友達との別れが大きなショックだったのでしょう。





僕に残っていたのは…自殺願望だけでした。



家庭であった辛い経験は全て忘れてしまいましたが、心は正直でした。

無意識のうちに溜め込んだ苦しみは根強く僕を支配していました。













そして、僕は高校に入学しました。

2007年6月25日月曜日

卒業の前に…

受験が終わり、卒業も目の前になった二月後半。

僕は全く卒業の実感がありませんでした。

卒業と共に、僕は引っ越す事になっていました。

あまりの治安の悪さに両親が耐えかねたのです。





後輩が母親を殺してしまったんです。




僕の両親が知らない所で近い事は沢山あったので、僕は大して驚きませんでしたが。

それをキッカケに両親は引越しを決めました。





僕の地元は少し変わった所でした。





幼稚園から中学卒業までメンバーが変わらないんです。

狭い地域だったので、メンバーの移動が無かったんです。

みんなが幼馴染みたいなものでした。






高校に入れば、中学を卒業すればみんなと毎日会えない・・・。





そんなの信じられなかった。

もはや兄弟とも言える友達との別れ。

会おうと思えば会えますが、毎日会える訳じゃない。

いつもみたいに下らない話で騒げる訳じゃない。

たまに会う程度になってしまうんだ・・・。






涙を流して家族の事を打ち明けてくれたS。

リスカをして泣いて電話してきたN。

それを抱きしめて慰めた僕とH。

いつも夜中から夜明けまで話したU。

唯一、僕が家庭の事を打ち明けたK。

いつも何かと支えてくれたR。

さりげなく励ましてくるA。

何も言わず、隣りに居てくれたM。

大好きだった保健室の先生。






何より、初恋の相手Y。





そんな人達のとの別れなんて信じる事が出来なかったのです。

大げさだと思いますか?

だけど、僕にとってはとても大きな衝撃だったのです。

それは本当に・・・大きな衝撃だったんです。





家庭で限界まで溜めたストレスを、唯一発散させてくれたのは友達でした。

誰にも言えない心の傷を、言わなくても理解してくれたのは友達でした。

同じ悩みを持って、励まし合い、支え合ってきたのは友達でした。

普段、能面のような顔の僕に涙の流し方を教えてくれたのは友達でした。

一緒に泣いてくれたのは友達でした。

僕の心が安らぐたった一つの場所が友達でした。






辛い時も、楽しい時もいつも傍にいてくれたのは・・・友達でした。





隣りに友達が居ない事なんて想像出来なかった。

引っ越しで帰る場所が地元じゃないなんて信じられなかった。

新しい友達なんていらない。

ただ、この友達が傍に居てくれさえすれば何もいらない。













僕は放心状態になったまま、三月を迎えました。

2007年6月24日日曜日

受験

僕の中で受験は高校へ入る試験ではなく、周りにいる大人達への復讐の手段となっていました。

勉強でしか人を計らない大人への復讐でした。

気が付くと、もう十二月・・・。

クリスマスが近くて、パーティーに呼ばれたりしましたが、勉強があるからと断りました。





何も感じない。




冷たく凍った心は冬の寒さにも似ていて、僕は冬が好きでした。

夜はベランダに出て、星を眺めながらボーっとしていました。

我が家は都内ですが、かなりの田舎なので星が綺麗だったんです。





腕を切り、ベランダで星を見る。




これが僕の日課でした。

両親の喧嘩だけは続いていましたが、それ以外は我が家は平穏でした。

その頃はもう既に家族には何も期待していなかったので、何も思いませんでしたが。

もう壊れた僕には関係の無い事でした。





その時の僕の状態はと言えば。





原因不明の激しい頭痛、不眠、感情の著しい欠如、リスカといったものでした。

最悪でした。

でも、それが普通だったから何も思っていなかったのですが。





それから毎日勉強を続けました。




やっと受験の日を向かえ、僕は全力で試験に臨みました。

今までの成果を発揮して、何としても合格しようとしました。

結果は学区内でも五本の指に入る進学校に合格しました。






全く嬉しくありませんでした。





ただ、周りの大人は衝撃だったでしょう。

学級崩壊させていた張本人が進学校へ入学出来た事が。

受験後、僕は完全に絶望していました。

受験が終わって浮かれる友達と何となく騒ぐ毎日がまた来たのですから。

勉強をしている間は忘れる事が出来た事を、嫌でも考えなければならないのですから。













そして、卒業までにあんな事が起きるなんて誰が想像できたでしょう。

始まった復讐

狂ったように受験勉強を始めたのは、夏期講習の頃だと思います。

中三までの二年間は勉強を全くしなかった事もあり、成績はオール2でした。

人より二年分遅れている僕の学力を取り戻すため、一日平均で十時間ぐらい勉強をしました。






原動力となっていたのは、大人に対する激しい怒りでした。




勉強が出来れば良い、勉強が出来なければゴミ以下。

ふざけんな、と思っていました。

勉強でその人の何が解かるというのか?

そんなものでしか人を判断出来ないのか?

だったら、俺は勉強出来るようになって、お前らに言ってやる。






「勉強なんて何の価値も無い。こんな人間としてクズのような奴でも勉強さえ出来れば認められるんだよ。」と。





その思いは非常に強く、僕を動かし続けました。

成績はみるみる上がり、僕は二学期にはオール4ぐらいの成績を取っていました。

怒りに支配されていたのです。

リストカットも続いていました。

壊れた僕は全てを呪っていました。






母親、父親、長男、教師、全ての大人、そして自分自身を。





その呪いはこれから先、僕を苦しめる事になりますが、それは先の話。

涙が枯れ、感情が無くなり、勉強とリスカをする毎日。













気が付くと受験は目前でした。

2007年6月21日木曜日

潰された記憶

リストカットをする毎日が過ぎて行き。

気が付くと、僕は中学三年生でした。

その頃には家出をして、友達の家に泊まることが多くなりました。





同じ様な家庭に育った友達が集まり、酒を飲み、タバコを吸い、騒ぎ、寝る。





受験から目を背けるように、僕達はドンドンと荒れていきました。

酒を飲んで、騒ぐ事が日課でした。

それが、中学生に出来る最大にして唯一の逃げだったのです。

耐え切れない奴は号泣して、自分の家庭を嘆きました。

僕は泣いた事はありませんでしたが、友達の話は聞いていました。

そして、その度に思ったのです。






大人とはなんと汚い生き物だろう・・・?と。





性欲に任せてに子どもを作り、育てられもしないくせに親という権力を使って子どもを虐待する。




何が親だ。

何が教師だ。

何が大人だ。





ふざけるな。




そんな思いが体を包んでいました。

保身に走る親、教師、大人。

当たり障り無く生きようとし、本当に助けが必要な子どもを無視する。

その行為はとても醜いものとして僕の目に映りました。






世間では家出をし、酒を飲み、タバコを吸う中学生なんてゴミ以下の存在なのでしょう。





それでも全く構わなかった。

汚い大人にどんな判断をされようが関係無かった。

本気で助けてくれる大人なんて周りに一人も居なかったのだから。






こうなったら、大人全員に復讐してやる。





まずは教師からだ。

こんなゴミ以下の奴でも、勉強さえ出来れば何も言わないんだろ?

中学生の価値なんて勉強が出来るか、出来ないかなんだろ?

勉強がいかに人間性に影響が無いものか思い知らせてやる。













僕は狂ったように受験勉強を始めました。

2007年6月17日日曜日

リストカット

兄を殺し損ねた後の事でした。

僕のリストカットが始まりました。

理由は簡単です。





自分が生きている事を確かめたかったからです。





頭がおかしいと笑いますか?

なんでそんな事を疑問に思うのか不思議ですか?

その時の僕の状態は酷いものでした。





生きている感覚が無いのです。





これはとても大きな恐怖と不安を僕にもたらしました。

まるでロボットのように、感情なんて無くなってしまって、生きているかどうかさえも解からなかったんです。

誰にも言えない心の傷が限界を向かえたのでしょう。

何も嬉しくない。

何も楽しくない。

何も感じない。





感じるのは底なしの不安と辛さだけでした。




その辛さを紛らわす為に僕はリストカットを始めました。

自分で腕を切り、血が流れていく。

その時だけ生きて居る事を実感出来たのです。

頭がおかしいと言われればそれまでですが。

それだけが生きている証であり、痛みが僕に生きて居る事を教えてくれたのです。





涙を流す事が出来ない心が、代わりに血を流したのだと、今は思っています。




ただ、リスカで得られる安心感などは一時的なものであり、切り終えた瞬間からまた不安に包まれていました。

でも、それが生きる術を知らない13歳の子どもが出来る唯一の救いだったのです。





逃げる事が許されない家庭。





そんな中で潰された心が生き残る為には…それしかなかったのです。

リストカットは僕の日課となり、日を追うごとに傷は深くなっていきました。

腕は傷だらけになり、皮膚は硬くなっていきました。

毎日、多い時は30回以上切っていました。

その時は何とか生きている事が出来たのです。













これから、僕の本当の葛藤が待っているとも知らずに。

2007年6月16日土曜日

血塗れの手

あれは兄をスパナで殴りつけ、大怪我をさせた夜でした。





両親は酷く僕を叱りました。




もちろん、暴力も一緒に。

怒鳴られながら殴られる僕。

あぁ、またいつもの感覚だ。

自分が自分では無い感覚。

今殴られているのは僕じゃないんだ。






「ただの喧嘩にしてはやりすぎだろうが馬鹿者!!」





覚えている両親の言葉はそんなものでした。

この時、僕は思いました。





この人たちは何を言っているんだろう?





今まで散々僕を殴りつけてきたのは長男とお前らじゃないか。

散々子どもの目の前で喧嘩をしてきたのはお前らじゃないか。

長男の暴力を無視し続けたのはお前らじゃないか。

耐え切れなくなった心が爆発したんだよ。

それをただの喧嘩だと?





殴られながら、ただ冷静にそう思っていました。





何も解かってない両親に激しい怒りを覚えました。

ただの喧嘩でスパナで殴るなんてありえないじゃないか。

何で家庭の事を、僕の事を無視するの?

僕は産まれてこなければ良かったの?





死にたかった…。




全てに絶望していました。

産まれて来た事、長男の僕への暴力の無視、激しく燃える怒り。

何もかもが壊れていたのでしょう。





ただ、死にたかった。



綺麗事なんて聞きたくなかった。

生きていれば良い事あるよ、なんて言葉なんか信じていなかった。

だって、今まで生きてきて良い事なんて何一つ無かったのだから。












そして、僕のリストカットが始まりました。

2007年6月14日木曜日

殺人未遂の夜に 

気が付くと、僕は中学生でした。

小学校高学年~中学生前半までの記憶が無いんです。

学校の事は覚えています。

家の事だけ記憶が抜け落ちているのです。

病院で聞いたところ、解離性健忘というものらしいですが。






気が付くと中学生の僕が居ました。





僕は五歳から武道をやっていました。

中学生にもなると、長男よりも強くなっていて暴力を振るわれる事はありませんでした。







僕に残っていたものは激しい怒りだけでした。






何があろうと長男と両親を殺すんだ、と思っていました。

怒りだけで生きていたのでしょう。

何度も言いますが、今はそんな事は思ってません。

けれど、当時は本気でした。

僕の流した血の分、奴らにも血を流させてやる、と思っていました。






ある日の事でした。




何が原因かは解かりません。

長男と喧嘩をしたんです。

喧嘩はエスカレートし、僕の怒りは頂点に達したのでしょう。







近くにあったスパナで長男の頭を殴りつけました。






長男は倒れ込み、頭からは大量の血が出ていました。

うめき声を上げながらうずくまる長男を見て、僕は高笑いしていました。






これでやっと一人死んだ!

殺してやった!

苦しみながら死んでいけ!





そんな事を思っていました。

長男は失神していましたが、命には全く別状が無い程度の怪我でした。

血が大量に出た事で死んだと勝手に決め付けていたようです。






しばらく僕は放心状態でした。




血塗れで倒れこむ長男を見て、ただ呆然としていました。

これで一人殺した・・・。

実の兄を殺してしまった。






「あと二人・・・。」




小さな声で言ったのを覚えています。

親が帰ってきてからの事はあまり覚えてません。

ただ、兄の傷は大したことは無く、生きている。

それしか覚えていません。













殺人未遂をした夜でした。

2007年6月7日木曜日

呪いの言葉

兄の自殺未遂から一夜明けて。

次の日、僕は何も無かったかのように学校へ行き、騒ぎ、いつも通りを装いました。

兄の事は誰にも言えなかったです。

言うつもりもありませんでした。








家の事は絶対に口外しない。







家族の事は口には出さないし、外では仮面を被った自分を装う事を誓いました。

友達には何も語るまいと思いました。

ただ、騒いでだけいれれば良い、家の事を少しでも忘れられれば良い。

そう思っていました。








それでも、家には毎日帰らなくてはならなくて。







家に帰れば長男の暴力の嵐が僕を待っていて。

リモコンで殴られる日もあれば。

棒で殴られる日もあれば。

紐で首を絞められて失神させられる日もあれば。

食事出来ない程に口が切れる日もあれば。

骨が折れる日もあれば。

歯が欠ける日もあれば。









夜になれば酒に酔った両親が暴れだし。







子ども部屋に篭り、涙を流し。

ただただ、時間が過ぎて行く事を願う日々。








その頃の僕の夢は両親と長男を殺す事でした。







積もりに積もったこの恨みを、体で償ってもらおうと。

もちろん、今はそんな事は思っていません。

ですが、当時は本気で思っていたんです。

高校一年になったら、両親と長男を殺し、家を燃やす事。

怒りが強く、僕の心を支配していました。













気が付けば僕は中学生になっていました。

2007年6月5日火曜日

星が綺麗な夜に

午前二時、長男が行方不明になりました。

家に居ない。

こんな時間に何処へ・・・。

学校で虐められる長男。







全員の頭に最悪なシナリオが浮かびました。






全員で外へ出て探しました。

いない、何処にもいない。





すると、団地の屋上に兄の姿が・・・。





走って屋上まで行くと兄はボーっと空を見上げていました。

息を切らしながら兄に言いました。






「死ぬんじゃねぇ!!それだけは絶対にダメだ!」





すると兄は答えました。





「ただ・・・空を見ていただけだよ。」と。





嘘を付くな。

お前の引き出しに入っている遺書が見つかってないとでも思っているのか?

飛び降りるつもりだったんだろう?

そこまで限界だったんだろう。






我が家は非常に複雑でした。





毎晩酒によって暴れる両親。

毎日、僕を殴り続ける長男。

母親から虐待をされる三兄弟。

自殺未遂した僕と長男。






家庭は完全に崩壊していました。












その次の日、僕はある感情を強く感じる事になります。

2007年6月4日月曜日

新月の夜に

家庭で荒れ狂う長男。

両親の喧嘩もドンドンと過激になっていきました。





「お前の血なんか受け継いでるから、あんな出来損ないが出来たんだよ!!」




「アンタが酒乱だからあんな子が出来たのよ!私のせいにしないでよ!」





そんな会話が繰り返される毎日。

僕達兄弟の心はもう・・・元へ戻る事は無かったのでしょう。

傷つく事に慣れる事はありませんでした。

心の傷は底なしに深くなっていきました。






産まれて来なければ良かったの?




生きていちゃいけないの?




俺達が居るから両親はこんな喧嘩をしなくちゃいけないの?





そんな思いが全身を包んでいました。

多分、兄弟全員が同じ思いだったのでしょう。

毎晩、リビングで喧嘩が始まると子ども部屋に閉じこもり、三人で泣いていました。





ただただ、泣いていました。




響き渡る両親の怒声。

涙はとめどなく流れていきました。






そんなある夜の事でした。






深夜、二時ぐらいだったと思います。













兄が行方不明になりました。

2007年6月3日日曜日

潰された心

毎晩続く両親の喧嘩。

子どもを殴る父親。

機嫌を損ねると食事を与えず、殴る母親。

止まらない長男への虐め。

長男の家庭内暴力。

僕の自殺未遂。

虐めを見てみぬ振りをする教師。






僕を取り巻く環境はそういったものでした。





ある日の事でした。

兄は帰ってくるなり僕を殴りつけました。

兄の体はアザだらけでした。

学校でやられたのでしょう。

完全に狂っていました。






殴られ続ける僕はあの夜の事を思い出しました。






そう、万引きをした夜に母親に殴られ続けたあの夜を。

あの時と同じ感覚。

自分が自分では無くなる感覚。






どれぐらい時間が経ったでしょう。





気が付くと兄の暴力は止んでいました。

僕は倒れこみ、全身を殴られた痛みで動く事ができませんでした。

その時、僕の骨は折れていました。







その日を境に兄の僕に対する暴力は毎日続きました。







日課と言った方が良いかも知れません。

もちろん、両親は無関心でした。

彼らは彼ら自身の事で精一杯だったようです。

喧嘩ばかりしている親。

僕がいくら殴られようが関係無かったのでしょう。

アザだらけになる体、壊れていく心。






毎日続く両親の喧嘩と兄からの暴力。





もうその頃には自殺願望以外の感情は感じなくなっていました。

ただ、死にたいと思っていました。





あの時に殺されたかった。




こんな辛い思いをするぐらいなら死んでしまいたかった。

自分が自分では無い感覚もありました。

まるで自分がロボットのように感じるのです。

感情が無くなり、何にも反応しなくなりました。






それでも学校では明るく振舞いました。





ただ騒いで、学級崩壊をさせて。

家に帰るとまるで人形のように殴られ、倒れる。

そんな日々が続いていました。






全てを呪って生きていました。





誰も助けてくれない。

誰にも言えない家庭内暴力。

両親の喧嘩。

親から浴びせられる罵声と暴力。













そんな日々が続いていたのは僕が10歳の時でした。

2007年6月2日土曜日

自殺願望は実行へ・・・。

僕は自分のお腹に刺すつもりだった包丁を床に落としました。

そして、ただ泣き崩れていました。






もう限界だったんだろう。





まだ小学四年生の子どもには背負うモノが多すぎたのだろう。

虐待、家庭内暴力、兄への虐め、両親の不仲。

10歳の子どもには受け入れる事はとてもじゃないけどできませんでした。






それから、ずっと泣き続けていました。






「もう・・・耐えられないよ・・・。」






小さな声で発した言葉は、本当に切なく辛いものでした。

誰も助けてなんかくれないんだ・・・。

誰も言えないんだ・・・。

誰にも頼れないんだ・・・。






死にたかった……。





ただ単に死にたかったんです。

この苦しみから解放されるならば、命なんていらない。

この悲しみから解放されるならば、命なんていらない。

この絶望から解放されるならば、命なんていらない。

この辛さから解放されるならば、命なんていらない。





命なんていらない。




そう強く思っていました。

悲しい事ですが、これが僕の現実だったのです。













しかし、これ以上の痛みが僕を襲う事になると誰が予想できたのでしょう。

2007年5月30日水曜日

止まる時間、流れる血

「ドゴォ!!」





兄が母親を殴った音はリビングに響き渡りました。

倒れる母親。

兄はボロボロと泣いていました。

きっと、限界だったのでしょう。

そこまで学校での虐めは酷いものだったのだと思います。








母親は骨折しました。







水腎症という障害を乗り越え、生き長らえた命。

それを虐めという計り知れない脅威が、兄を襲っていたのでしょう。

何ヶ月も病院へ泊り込み、看病してくれた母親への暴力。

それは兄が完全に壊れてしまった事を表していました。








兄はその場で泣き崩れていました。







とにかく、母親を病院へ連れて行こうと思い母親に近づくと








「大丈夫だから。自分で病院行くから。」






小さな声でそういって家を出て行きました。

その間も兄は泣いていました。







毎晩繰り返される母親と父親の喧嘩、ストレス発散に使われる子ども、虐められる二人の兄。







一体、何が正常なのかさえ解かりませんでした。

涙が僕の頬を静かに流れていきました。






もう……戻れない。






何もかもが終わった。

必死で仲良し家族を作っていたが、今日で全てが終わりだ。

家族への絶望、虐めを放置する先生、虐待をする両親への激しい怒り、誰にも言えない悲しみ。

心は本当に混沌としていました。

全ての負の感情が体の中で渦巻いていました。

もう終わりだ・・・。






張り詰めた糸が切れた瞬間でした。





あの日の夜、僕は初めて自殺未遂をしました。

次男の目の前で刺身包丁でお腹を刺そうとしたんです。






「俺なんて産まれて来なければ良かったんだろ!だったら死んでやるよ!!」





そう泣き叫びお腹に包丁を刺そうとした瞬間、次男が飛び込んできて止めてくれました。

次男は号泣していました。






「死んじゃダメだよ・・・。それだけはダメだよ・・・。」





泣きながら小さな声で言いました。

僕も号泣していました。





辛かった・・・。




助けて欲しかった。

普通の家庭に産まれたかった。

虐めを無視して欲しくなかった。













あの夜、溜まっていたものが全て爆発したのでしょう。

こんばんは

訪問された方は、余裕があったらコメント残してくれると嬉しいです。

今夜、また日記をUPしますので。

2007年5月25日金曜日

家族の欠片

あの夜から何日経ったのか、僕には分かりませんが気が付いたら顔の傷は治っていました。

記憶障害なのでしょうが、記憶が非常に曖昧・・・というか無いんです。

それでも、今も傷跡だけは残っていますが。








長兄はもう中学生になっていました。








イジメはエスカレートする一方でした。

その頃には服を切られるなんて当たり前でした。

体中アザだらけで帰ってきたり、歯が折られたり、教科書がズタズタだったり。

何が正常で何が異常なのか分かりませんでした。

あの時には長男は完全に狂っていたのでしょう。









ある夜、うなされる兄の叫び声で家族全員が起きました。









「やめろー!やめてくれえぇえぇえええぇぇええぇぇ!!!」









今でも頭から離れる事は無いです。

必死とはまさにアレを言うのでしょう。








次の日の朝、兄は普通に起きて学校へ行きました。








そして、学校から帰ってきた兄を見て母親は尋ねました。

学校で何があったのかを・・・。

もう転んだなんて嘘で隠し切れるほどのケガではありませんでしたから。

すると兄は







「うるせえええぇええぇぇぇええぇ!!!!」








と叫んで母親を殴りつけました。













家庭内暴力が始まった夜でした。

2007年5月22日火曜日

激痛と共に

学級崩壊のせいで先生は急遽、家庭訪問を始めました。

もちろん、その中心に僕とKが居た事も全ての親達に伝わりました。

学級崩壊の話を家庭訪問で聞いた両親。

世間体を最も大切にする母親の逆鱗に触れるには十分過ぎたのでしょう。







家庭訪問の夜、僕を待っていたのは正に虐待でした。







正座をさせられ、殴られ、怒鳴られ、殴られ・・・。

何度も倒れこみましたが、強制的に正座をさせられました。







「お前のせいでお母さんの評判がどれだけ落ちたと思う!!」







「お前をここまで育ててやったのは誰のお陰なんだ!!」








永遠とも感じられる時間がそうして過ぎていきました。

ただ、親から殴られるだけの絶望。

それは簡単に僕の心を破壊していきました。








あの時、殺されていれば良かった。







半殺しとはあれを言うんだなぁ、とその後しみじみ思ったものです。

自殺願望はありましたが、あの時に初めて本気で死のうと思ったのだと思います。






親に迷惑を掛けて生きている価値があるのか?

ここまで親を苦しめる自分が生きていて良い筈が無い。

どうせ学校での態度も変えるつもりは無い。

だって、学校の教師はクズばっかりだから。

兄の虐めを見てみぬフリをする教師だけなのだから。

でも、自分に兄の虐めを止める術は無い。

無力な自分が心の底から嫌いだった。







殴られながら、とても冷静にそう思っていました。






綺麗事なんか聞きたくなかった。






ただ僕と兄弟を救って欲しかった。

普通の学校生活を送らせて欲しかった。

普通の家庭で育ちたかった。







殴られ始めてどれぐらい経ったでしょうか。







夕暮れ時だった空は真っ暗になっていました。

口から出る血を拭く力さえ残っていませんでした。

全身の力が抜け、倒れる事しか出来なかった。







早く死ななきゃ。






そう強く思ったのを覚えています。













小学校四年生、10歳の時でした。

2007年5月19日土曜日

崩壊の波

家庭でのストレスが原因だったのでしょう。

遂に僕のクラスは学級崩壊をしました。

同じような家庭に産まれた同級生が多かったのです。

騒ぐ事だけしかストレスの抜け口が無かったのでしょう。

もちろん、それだけでは不十分なものでしたが。






授業はもちろん出来る状態ではありませんでした。





暴力、陰口、虐めに塗れたクラスはもう元へ戻る事は出来ませんでした。

溢れ返る負の感情を誰も止める事は出来ませんでした。

騒いで何かを必死に隠そうとしていたのかもしれません。






僕と友達のKはその中心にいました。






軽率で愚かだったと思います。

Kの家も複雑でした。

父親がアル中だったようです。

中学時代に聞いたのですが、家に帰ると暴力の嵐がKを待っていたそうです。






でも当時は僕もKも誰にも相談なんて出来なかった。






吐き出すという事を知らなかった。

お互い逃げ道の無い地獄を味わってきたのだと思います。

クラスが完全に崩壊し、間もなく家庭訪問が始まりました。

それぞれの家庭で先生がクラスの状況を伝えたのです。













それから涙も流せない程の苦痛が僕を襲う事になります。

2007年5月17日木曜日

絶望は恨みへ

小学校四年生の時、僕は大人への信頼感を全く失ってしまったのです。

大人に対して深い絶望と激しい怒りを感じるようになりました。





虐めを放っておく先生、理不尽に子供を殴る母親、酒に酔って暴れる父親。





あの頃は大人なんて誰も信用する気なんて無かったです。

奇しくも僕と同じような家庭に生まれた友達がクラスに居ました。

あの怒りと絶望が伝わったのでしょうか。






自然とクラスは崩壊していきました。





学級崩壊というやつです。

中心には僕とその友達、あとは騒ぎたいだけの奴らが居ました。







大人になんかこの苦しみは分からない。







言葉にしなくても行動で十分、その思いは伝わったと思います。

授業なんて成り立たず、ずっと騒いでいました。

同級生でも文句を言う人は誰もいませんでした。

言えなかったのかも知れませんが。

もちろん、行動自体は自分勝手な思い込みからの軽率な行動だったと思います。







僕のクラスの学級崩壊はすぐに学校の問題になりました。





色々な先生がHRでやってきました。

色々な話をしてくれました。







その全てが信用できなかった。







激しく歪んだ心を制御する方法がまだ分からなかったのでしょう。

あの時に出来た事はとにかく恨む事だけでした。

その思いは消えることなく、中学卒業まで僕の中で燃え続ける事になります。













あの時が家庭から溢れた毒が学校を汚染した瞬間だったのだと思います。

2007年5月15日火曜日

伝染

兄が学校で虐められ始めてからニ、三年ぐらい経った時でしょうか。

虐めの対象は長男だけでなく次男にも向けられました。






「アイツな○○の弟だぜ~!気色悪ぃなぁ!あはははは!」





そんな事を言われる姿は日常と化すのに時間は掛かりませんでした。

虐めは伝染していったのです。






その頃からでしょうか。





僕ら兄弟の性格は著しく変わっていきました。

長男は極端な無口に。

次男は学校では無理をして笑っていましたが、家ではあまり話さなくなりました。

三男の僕は学校では明るく装い、家では無口でした。





僕は自殺する事をいつも考えていました。





長男と次男への虐めを見て居たくなかったし、両親も喧嘩ばかり。

時には殴られたり、喧嘩の道具にされたり。

学校でも家でも心の休まる時なんて無かったです。

全てに疲れ果てていたのだと思います。

小学校三年生の時です。






少しずつ溜まる負の感情は、爆発する時を待っているかのようでした。






同級生になんて相談出来なかったし、先生だって信用出来なかった。

その頃から僕は大人を激しく恨むようになりました。

虐めを放っておく先生、喧嘩ばかりの両親。

僕の中での大人の価値はゴミ以下でした。














その思いが行動に移るのに時間は必要ありませんでした。

2007年5月14日月曜日

届かない叫び

兄は学校で虐められ始めました。

それでも学校へは休まずに行っていました。

でも、耐え切れなくなったのでしょう。





小学校三年生の時、兄は学校を休みたいと親に言いました。





父は激怒し、兄を殴り倒しました。

そして、殴り終えて兄に言った言葉は





「下らねぇ事言ってねぇでさっさと学校行って来い!」




でした。

兄は小学校三年生、たった9歳の子供でした。

それから兄は二度と学校の事は家で言わなくなりました。

黙って学校へ行っていました。

何事も無かったかのように毎日が過ぎていきました。





家では毎晩、酒に酔って両親が喧嘩をしていました。





僕が7歳の時には皿の割れる音なんて聞き飽きていました。

それでも喧嘩の度に震えと涙は止りませんでした。

次男と2人で黙って押入れに隠れる作業はもはや日課となっていました。

お互いを貶し合い、子供の前で何度も離婚をすると叫ぶ姿は本当に壊れた家庭を象徴するものでした。

子供の僕達に出来る事なんて何もありませんでした。

ただ時間が過ぎるのを待つばかりでした。






そしてまた朝が来て、学校へ行って、夜になって・・・の繰り返しでした。





きっとこの頃には僕ら兄弟の心は修復不可能なまでに破壊されていたのだと、今になって思います。













それに追い討ちを掛けるように、さらなる絶望が僕ら兄弟を待っていました。

2007年5月13日日曜日

地獄の始まり

兄は大手術を終え、無事に帰宅しました。

それでも完治するまで9年も掛かりました。

手術痕も背中からお腹にかけてと大きなものでした。

それでも何とか繋ぎとめた命に親は喜んでいました。

あれは兄が小学校二年生ぐらいの時だったと思います。







お腹の傷が原因で兄は学校で虐め始められました。






プールの授業の時だったそうです。

傷を同級生が見てからかい始めたのだそうです。

その日、兄はとても落ち込んで帰ってきたのだそうです。

でも、親にも兄弟にも何も言いませんでした。

言えなかったのでしょう。

病気でたくさん心配を掛けたから、これ以上迷惑を掛けるのはやめようとしたのだと思います。

でも、その努力はすぐに泡となります。






兄は毎晩、悪夢にうなされる様になったのです。





親は最初は病気の事がトラウマになっているのだと思っていました。

ですが、兄が寝言で言っていたのだそうです。





「この傷がそんなに面白いのか!」と。













三人兄弟の内、一番最初に壊れたのは長男でした。

2007年5月12日土曜日

余談

一応、家族構成を説明しておきます。

僕には兄が二人居ます。

三歳年上と一歳年上の兄です。

僕は三人兄弟の三男です。




母も話を聞く限り虐待児だったそうです。




母の兄弟はとても不仲です。

育ち方のせいもあるのでしょう。

母の父、つまり僕の祖父は相当なギャンブラーだったようです。

代々受け継がれた土地や財産を一人で食い潰してしまったのだそうです。

その恨みが晴れないのか、母は祖父をとても憎んでいます。




僕が想像するに非常に複雑な家庭だったのでしょう。



母が歪んだ原因はそこにあるようです。





一方、父は酒乱の父親を持っていたようです。

父方の祖父は戦争で親友が目の前で戦死するところを見てしまったようです。

その話を涙しながら僕に話してくれた事があります。

戦後、祖父は家庭で酒に酔い暴れていたそうです。

父はそれを見ながら育ったのでしょう。





父もまた酒乱でした。




両親共に親に恵まれなかったという点では親も虐待児なのかもしれません。

水腎症

僕が幼稚園に入園してから間もなくのある夜でした。





「痛い痛い痛い!!!」





兄がお腹を抱えて苦しんでいるのです。

両親も飛び起きて、様子を見に来ました。

とても普通の状態じゃない。

兄の額からは汗がボタボタと落ち、顔は苦痛に歪んでいました。






「救急車だ!救急車!」





父親が叫びました。

急いで救急車を呼ぶ母。

待っている間も苦しむ兄。

どうする事も出来ない自分。

そんな混乱した中で救急車が来て、兄は病院へ搬送されました。





病名は「水腎症」。





死ぬ事は無いけれど、腎臓を一つ摘出しなければならない程の大病でした。

それから母は兄に付きっ切りになりました。

国立の病院へ入院しなければならない程の症状だったそうです。

兄はお腹から背中に掛けて、大きな手術痕が残る手術をしました。

その後も点滴だけの生活が一ヶ月ほど続いたそうです。





チューブだらけの兄を見て、父は初めて家族の前で泣きました。




とにかく助かってよかった。

その思いが家族を包みました。













その手術が原因で家庭が崩壊するなんて誰も知らずに。

2007年5月11日金曜日

歪み始めた家庭

三歳の時、我が家は既に歪み始めていました。

母親は暴力を振るいましたが、父親の前では何もしませんでした。

いや、出来ませんでした。

なぜなら、父親は母親に暴力を振るっていたからです。

母親は父親を恐怖の対象として見ていたのです。

父の暴力は僕ら子供には向けられませんでした。

父は自分なりに気をつけて子育てをしていたようです。






しかし、母へ暴力を振るう父を僕は敵として見ていました。






今分かる事ですが、それも母の作戦だったのです。

父が仕事で家に居ない時には僕ら兄弟は徹底した父の悪口を聞かされていました。





その結果、父は敵、母は味方という負の家族関係が出来上がっていたのです。





母からの暴力へは怯えていました。

しかし、父の暴力の方がもっと恐ろしかった。

男と女の力の違いをハッキリと認識していたのだと思います。





母からは家の事は絶対に口外するなと言われていたので、誰にも言えなかったです。




それが幼稚園に入る前までの僕の家庭でした。

まだ完全には崩壊しきってはいなかったのだと思います。













あんな事が起こる前までは。

三歳の時

僕の記憶で覚えている最初の場面は、母親におんぶしてもらっていたところから始まります。

家に帰るとそこは本当に強制収容所のようなものでした。

少しでも母親の気分を害すと兄弟3人そろって正座を一時間ぐらいさせられ、ずっと殴られていました。





これは三歳の時の話しです。





三歳の子供相手に一時間、殴打をする母親。

そこには安心感とは程遠いものがありました。




何度も何度も泣きました。




そして泣くとそれが勘に触るのか、また殴られました。

口と鼻からは血が出てました。

それでもそれが僕の日常だったのです。

愛する親からの暴力に心はドンドンと歪んでいきました。

どんなに殴られても、親から愛されたい。

そんな切ない願いも儚く散っていきました。













これが僕が三歳だった時の家庭です。

初めまして

初めまして。

のりをと言います。

生まれも育ちも東京です。

なぜ、ブログを立ち上げたのかというと。







この思いをどこかに吐き出したかった。






僕は今年で20歳です。

でも今まで一度も家庭に居て安心した事は無いです。






そう、虐待児です。






ここには出来るだけ多くの事を書きたいと思います。

同情はいりません。

慰めて欲しい訳でもありません。

ただ、ここに思いを吐き出したいだけです。

そして、同じ立場の人達に伝えたい。





決して自分が異常なんかじゃないのだと。





そして説明したい事があります。

僕は解離性健忘という状態です。

記憶の順序がバラバラだったり、大幅な記憶の欠損があります。

局所的な記憶喪失です。

その為、覚えている事だけしか書けません。

それを踏まえて、読んで頂きたいと思います。






次回から僕が三歳だった時の話を始めます。